"荷物を席に置くこと"と"信頼"についての考察

荷物を席に置くという行為は人によって、それを行うか行わないかは変化する。誰かは自分が会計をしている間、荷物を席に置く。しかし、違う誰かは絶対に自分の荷物を席に置いていかない。しかしそのどちらもが外国に行くと荷物を置いていかない。そこにはどのような違いがあるか。そこには信頼という極めて脆い感情の存在が横たわっている。"荷物を席に置くこと"と"信頼"についての考察。

f:id:moon-sky-cielo-1902:20171220140115j:plain

 

荷物を席に置いて行くことにどのような意味があるかというと、自分が一時的にでも座った場所を自分の居場所であると、自分の所有物を置くことでマーキングしているのだ。犬が電柱に"マーキング"をするのと何ら変わらない。

だがその席に荷物を置くというマーキングについてはある程度の危険性がある。それはそのマーキングに利用した物を第三者に取られるという可能性だ。ではなぜ席に荷物を置く人は、そこに荷物を置いて行くことができるのか。それは信頼しているからである。荷物の周りにいる不特定多数の帰宅したら顔すら覚えていない、実態が一時的に存在するだけの人々を信頼するからである。

荷物を席に置くことであるいはマーキングをすることで、その席に座ろうと思う人はほとんどいなくなる、なぜならそこがマーキングされているからだ。シンプルだ。しかし今述べたことは日本でのみ該当するものである(多分)。同じ方法でマーキングを外国でするとどうなるか。そのマーキングはどこかへ取り去られてしまう。つまり自分の所有物が消える、盗まれるということだ。これは、その国々によって異なるが、たいていの観光地(観光地だからかもしれないが)荷物は常に肌身離さず置くようにと言われる。その警告を受け、日本でマーキングをしていた人達は、マーキングをしなくなる。というか、集団のツアーであるならば、マーキングをする必要すらない。席が予約されているからだ。

何が言いたいかというと、特にない。こういうことをただ思いついて、書きたかっただけだ。ブログはそういう役割もあるがあると思う。つまり感情の放出をする、感情のダクト的な役割があるということだ。話に戻ると、マーキングをするかしないかはあなた次第、荷物が取られたとしても誰も責任を取ってくれない。世の中はそういうものだと思うよ。