サブカルチャーも「カルチャー」の一部にしか過ぎない。

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サブカルチャーも「カルチャー」の一部にしか過ぎない。

サブカルチャー (subculture) とは、ある社会で支配的な文化の中で異なった行動をし、しばしば独自の信条を持つ人々の独特な文化である。「サブカル」と略されることが多い。(Wikipediaより)

 最近、サブカルという言葉がよく使われている気がする。ある人はこう言う。「私、サブカルが好きなんだよね」ある人はこう言う。「サブカル好きだから、ちょっとそう言うの分からないんだよな」。なぜ「サブカル」という言葉が、最近になってよく使われるのだろうか。

現在の若い人達(10代から20代にかけて)は自分が他とは違うということに固執している気がする。古着が流行しているのもそうだ。古着屋で一点ものを見つけることで他と被らない。それで意識していなくても、他とは違うと言う優越感が芽生える。そういう僕もそうだ。誰かと被る事はあまり好きではない。この「他とは違う」という点が「サブカル」という言葉が最近よく使われる所以ではないかと思う。

記事冒頭のWikipediaからの、「サブカル」という言葉の定義をもう一度読んで欲しい。

ある社会で支配的な文化の中で異なった行動をし、しばしば独自の信条を持つ人々の独特な文化

  こう書いてある。「異なった行動をし、独自の心情を持つ人々の独特な文化」。独特・異なった。そのような言葉が多用されている。「他とは違う」ということを表すのに最適な言葉ではないだろうか。しかもカタカナ言葉だ。聞こえがいい。

最近の「サブカルチャー」という言葉の意味はなんだろうか。「サブカルな」場所はどこだろう。下北沢、吉祥寺などのスポットが挙げられるだろう。それらの場所について共通して触れられているトピックは。やはり古着だろうか。レコードか。ファッションか。喫茶店か。お洒落なカフェか。

そもそも「現代の若者が意味するサブカルとは何だ。」と聞かれて、分かる人はいるのか。現代の若者が意味する「サブカル」という言葉の意味は、言葉だけが存在している蜃気楼的なものになっているのではないか。ではなぜ、わざわざ「サブカル」と言っているのか。

「他とは違う存在」の象徴なのだと僕は思う。つまり若者の意味するサブカルはカルチャーそのものなのだ。「他とは違う存在の象徴」として、その言葉を使おうが使うまいが、大勢がその流行にのっている。マイノリティーの文化を意味する言葉が、無意識的にマジョリティー的な言葉に変化してしまった。言い過ぎかもしれないが、古着だろうが何だろうが、自分が他と違ければいいのだ。

「古着」という言葉のブランドに執着するあまり、その服が前に誰かが着たものである、ということを忘れている人は、どれだけいるのだろうか。その前に誰が着たなどということはどうでもいい。下北沢や吉祥寺で「古着」を買えればいいのだ。SNSで「下北沢で買い物!古着たくさん買えた!満足!」などして他と違うということをアピールできればいいのではないか。そういうものなのではないか、と最近思い始めている。

 

文化とは真似で成り立っている。流行で成り立っている。他と同じことをすることで一種の風潮が生まれ、それが続き、文化となる。それに逆らおうとしている雰囲気が最近はあると思う。自分は他とは違う、そのような意識の表れだ。他と同じだと何が失われるのか。個性か。何だ。

しかし、いくらそのような風潮が出てきたとしても、「他とは違う」という思想自体が流行になってしまっているのであり、それから逃れることは出来ない。「他とは違う」そのようなこと自体が存在し得ないのかもしれない。

『アイディアは自分が生み出したものなどではない。以前の記憶から頭の中でもう一度練り合わせ、新たな形として生まれるだけなのだ。「独創的」などない。』

何かの本で誰かが言っていた。

 サブカルチャーも「カルチャー」の一部にしか過ぎない。結局は文化の一部なのだ。「サブカルチャー」というカテゴリが「カルチャー」というサイトの中にあるようなものだ。結局僕は何を言いたいのか。自分でもよく分からない。サブカルチャーを批判したいわけではない。僕自身も「サブカルチャー」と言うのは好きだ。そのニュアンスが好きだ。この記事で何を言いたいのか。SNS批判なのか。流行というものに対する批判なのか。

何なのだろう、分からない。

サブカルチャー - Wikipedia

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